「幡野広志のことばと写真展」にいってきました
2020年2月16日、「幡野広志のことばと写真展」にいってきた。
写真は、3年ほど前に、大好きな豆nakanoのコーヒーが広島の自宅に届いたときに、嬉しくて撮影したものだ。今日の写真ではない。
今回、生まれて初めて「写真展」に行った。
撮影もできたのだが、1枚も写真を撮らなかった。
「撮らない」と決めていたわけではないのだが、憧れでずっと行きたかった場所だったからこそ、肉眼でしっかり見たいと思った。
きっとこの瞬間は、これから先の人生で意味や色合いを変えて何度も味わうだろうなとなんとなく感じた。
幡野さんの著書を拝読して、「自分の選択で生きられないのであれば、親であっても関係を断っていいんだ」と背中を押された。
そして、選び、選ばれたパートナーを一層愛おしく思うようになった。
そして何より、写真との付き合い方が変わった。
幡野さんの言葉や写真から、「写真は関係性が写るもの」と教えられた。
写真嫌いなパートナーが、なかなか自分と写真を撮ってくれないことが寂しかった。
幡野さんの言葉や写真と出会うまでは。
彼は、あまりカメラに向かって表情を作るのが好きではない。
なので最近は、私は一方的にスナップショットを撮っている(これに関しては彼は嫌がらないので)。
好きなスポーツの試合を見ている姿、
うまいものを食べる姿。
旅先で10メートル先に進み、慣れないカメラを設定する私を振り返る姿。
結婚式後、安堵の表情を浮かべる姿。
そしてまたうまいものを食べる姿。
時々彼も私を撮っているようだ。
ごはんを撮る私、
ごはんを撮ったあと、ごはんにありつこうと小鼻を膨らませる私、
うまいものを食べる私、を撮っている。
そして、私のカメラロールには彼が増え、彼のカメラロールにも私の知らない私が増えている。
私がそこまでして彼を撮るのは、彼が可愛くて仕方がないからである。
リラックスしてふんふん鼻歌を歌う彼が、「な~に撮ってんのよ~」とまんざらでもない感じで言うのが好きだからである。
以前は、
パートナーがカメラに向かって表情を作ることが好きではないことを知りながら、
どうにかこうにかツーショット写真に拘っていた。
彼との思い出の証拠が欲しかったのか、ツーショット写真がたくさんある結婚式のオープニングムービーに憧れていたのか。
いずれにしても、私が彼とのツーショット写真に拘っていたのは、他のカップルと自分たちを比べていて、「しあわせの象徴」をツーショット写真に見出していたからである。
無理やりカメラを向け、表情に注文を付け、何回もシャッターを押して…。
しかし、幡野さんの言葉と写真から、「写真は関係性だ」と知った今、ふたり並んで写真を撮ることに、取り立てて言うほどの意味がないことがわかるようになった。
私の撮るパートナーのくつろいだ顔、
パートナーの撮る私の丸い顔、
私の撮る、nakanoさんのコーヒー豆。
私の撮る飼い犬。
友人が撮った私。
全てに、関係性が映り込んでいる。
そのことを幡野さんの言葉に教えられたとき、わざわざパートナーが「嫌い」なことをしてまで何を証明したかったのだろう、と猛烈な後悔の念に襲われた。
そして、前に付き合っていた男の子が、カメラが好きで、
自分とのデートそっちのけでカメラを触っているのが嫌いだったことを思い出した。
私、不機嫌になって彼を試していたな。
目の前にあるモノと彼との関係を、もっと大切にしてあげればよかったな。
この誰もが写真を撮る今、
誰にも嫌な思いをさせないで、
しあわせな瞬間を残すことは、そんなに難しいことではなかったのに。
写真嫌いな彼だが、時々一緒に写真を撮ろうと提案してくれることがある。
初めて「一緒に撮ろ?」と言ってくれた日が嬉しかったのは、
しあわせな時間の証拠が残せたからでも、結婚式を彩る写真が増えたからでもなかった。
彼が、自分たちの関係を「撮りたい」と思ってくれたことが、本当に嬉しかったのだ。
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展示を見終わった後、幡野さんにサインをいただいて、握手もしてもらった。
あの、本当に大好きです、と言ったら笑ってくれた。
厚くてあたたかい手だった。
興奮のあまり、渋谷のまちをデタラメに闊歩した。
電車に乗ってから、寄る場所があったことを思い出した。
今度でいいや。
しあわせを願える人を、パートナーに選べてよかった。
自分のしあわせを大切に思える自分でよかった。