飛び石ジャンプ

辛い日々も飛び石のひとつ。よく遊び、考え、暮らしを愛でる日々のブログです。

STEAM教育と私の接点

 最近考えていることを、現時点で残しておく。

動機

 2年前、適応障害で小学校教諭を半年休職し結局退職した。そこから教育に関する情報をシャットアウトしていた(単なる憎しみ)のだが、自分では「知を愛する」といいながら結局のところ感情に没頭している状態であることに気付いた。

 そこを脱して新たな視座に立ちたいと思った時、STEM/STEAM教育が破竹の勢いで世の中に浸透していくのを感じて本記事を書いている。

 最近の教育実践やベンチャー企業の取組みなんかについてはこれから勉強していくのだが、その学習の地図となるように、まずは自分と社会の接点について考えてみる。

 

 余談だが、退職して事務職(メンタル不調をどうにかできそうな福利厚生の整った)に転職してから、「私も退職する」と4人の友人教員から聞いた。「やめて同業になったよ」も1人。実際に退職を決めた2人は特に教科教育に熱心で、教材研究がすごく好きなタイプだった。そして研究をめちゃめちゃ楽しめる人であった。

 そういう人はフットワークも軽いし趣味に没頭するので色々な仲間を作っていて、どこにいっても楽しそうである。「なまじ教育は数値で結果が出ないので、長年勤めていても教育職に誇りを持てない教員も多い」とハローワーク職員に聞いたことがあるが、その気持ちはよくわかる。

 子どものために自分の知的活動を捧げることができる人をどんどん失っているのは現場にとって痛手であるのは間違いないが、「研究熱心な人こそ適応できない」という現状は本当にまずい。

 「社会に貢献したいけど公教育は厳しいな」と思っている人はどんどん「逃げ」出して、一緒に新しい教育を考えていけたらと思う。教科教育に集中できて、心身ともに健康で、教員同士閉鎖的ではなくハラスメントもなくて、テクノロジー活用して楽する所は楽をして、子どもの知的活動を支えられるならまた教育やってもいいかな、と思っている私のような人は絶対にいると思う。

 

STEAM教育と国語(言語)教育

 STEAM教育とは、Science(科学)、 Technology(技術)、 Engineering(工学)、Art(芸術)、Mathematics(数学)の5領域を重視する教育方針であり、テクノロジーの発展に伴う社会構造の変化に対応し、テクノロジーと共存する社会を作れる人材を育てようという考え方である。

 上に書いた5項目は世界共通言語(アート領域は美意識や文化背景によって感じ方も違うが)であり、教育ソフトウェアベンチャーはUIが優れていて説明書も必要のないソフトウェアをたくさん作っている。2020年から始まるプログラミング教育も、「プログラマ養成コース」ではなくプログラミング的思考力をつけるためのものであり、プログラミングを実際に行う体験こそが必要なものになる。

 これまでで言う国語算数理科社会その他を「情報」としてとらえ、情報活用してシェアして体験して思考する、という学びの場を作れればと思う。

 

 このSTEAM教育の中で、従来の国語学習はどうなっていくのだろうか。

 「書く」すなわち「表現する」ことの中には、伝えたいことやモチベーションなど、書き手の「核」ともいえる根幹部分が存分に入る。「教科学習」というフレームの中で自己開示し他者と学び合う上で、書く(手書きでとは言ってない)行為は今後も必要であると思う。また、ソーシャルスキルとして話すこと、聞くことの指導が消えることもないであろう。

 

 ただし、情報を与える→読み方・情報の得方を教える→理解度をチェックといった従来の「読むこと」領域の学習方法は大きな転換を求められていると感じる。読む行為は情報を収集する行為であり、あれこれ考えながら読むことは思考力とはまた異なる能力であると私は考えている。情報活用と読む指導は同時に行われる必要があるはずだし、STEAM教育を推し進める上で言語教育は一層重要性を増していくと思う。

 言語は思考のツールでもあり、情報収集のツールでもある(図やデザインでよりダイレクトに伝わるものも当然多い)。他者と合意形成したりチームビルディングしたりするにも言語が必要である。そもそも言葉がないと生きていけない。

 STEAMの上に帯状に「言語」がかかってくると思う。情報を利活用し、他者と相互理解しあえるようこの具体的な指導方法を見つけたい。

 

とは言え折れた身

 熱い気持ちを持っていながら現場で折れたのは、「子どもに対して緊張するから」である。

 驚くと思うが私は子どもが得意ではない。

 が、大人は得意だ。得意だというか、大人って断然自由で、知を愛して他人も自分も好きになれば人生超楽しくなるからおすすめだよ、という気持ちを持っている。

 「アイスは1日1個まで」ってルールを敷いてくる親みたいな人はいないけど、アイス2個食べておなか壊したりお金使いすぎたりしたらそのケツを拭いてくれる人もいないから、自分の人生は自分でドライブしなきゃいけないよ、でもそれが人生の醍醐味じゃない?と言いたかった。

 そもそも「対象が好き=子どもが好き」というのは仕事をする上で必要不可欠な条件ではないと思う。幼い娘がいる親が、「幼女大好き」な大人に子どもを預けたいと思うだろうか?教育は「子どもを大人にする」仕事である。子どもがかわいくて子どもなりの失敗もかわいいと思う人は、子どもを子どものままにしてしまうのではないだろうか。だからといって子ども=未完全だと考えて憎む必要もないが。

 

 ただし、実際の現場は多忙を極めるし、子どもの人格形成の基準が担任の人間性になってくるので、人格形成の考え方が親サイドと合わない場合、日常的に「先生は頭がおかしいです」と目を見て言われる。

 それでも「子どもが好き」という気持ちがモチベーションになり、体力もある人なら、子どもと過ごしている時間によってストレスが解消される。つまり、仕事で受けたストレスを仕事で発散することができるので、長期的に見た時に結局持続可能性がある。

 ただ私は子どもと喋る時間が不得意だったので潰れてしまったのである。

 媚びたくないだけだ。対等でいたいから機嫌取りはしたくない。賞罰教育が嫌いだ。そうしたら親から「もっと褒めろもっと愛せ」とバッシングを受けてしまったのである。

 

 画一的な教育に反対していたけど、一人ひとりが自分で課題を見つけてくる40人学級が本当に実現可能なのだろうか。体感としては8人くらいが限界である。

 そもそも、教室の子どもたちの人格形成を、担任教員の人格に依存していることに限界を感じる。

 人材が多様化していけば当然これまで以上に差異化が生じてくるが、自分とは違う人格の人から否定されるのは仕方のないことなのか。多様化社会だからいろんな人がいる、仕事(教師)なんだから人格は否定されても仕方がない、のか?

 

「人格形成」なんてやめよう

 これまで書いてきたことを踏まえて、できそうでやりたいことを考えるとこうなる。

 

知に没頭する子どもをサポートしたい

そのことが人生を楽しくすると信じているし

それなら自分にも無理なくできそうだから

 

とまあ、何も子どもでなくてもいいのだが、これからの子どもの方が自分よりもはるかにテクノロジー親和性が高いだろうし、自分の研究してきた国語教育が彼らのためになるのなら投資したいと思うから。

子どものみならず、人格は社会全部で作られるものになるので「人格形成」という教育の考え方はもうやめよう。点と点が結ばれて最後に出来たその人のライフスタイルが「人格」だろう。私だって日々変わっている。

 

最後に

 

 最後になるが、子どもが子どもらしくいることを、もっと社会全体で当たり前の「権利」として保証していくべきだと思う。

 ただ私個人でも、彼らはうるさいし汚すし、「騒いだり遊んだりしないで粛々と生活してくれよ」と思うことはある。めちゃめちゃある。

 ただ、どんなことでも遊びに変えられる才能にあふれていて、傷つきやすい部分もあるけど、その分大人とは比べ物にならない治癒能力も持っている。

 

 短期間だが教育現場に居て、学校が「子どもを大人にする場」ではなく、「あえて子どもを子どもに戻す場」になっていることを強く感じた。社会が子どもを子どもでいることを許さないので、大人びて「見える」。

 教育の問題は教育だけどうにかすればいいわけではない。

 その時その時のライフステージを十分に受け入れて、遊ぶように生きることが0歳から100歳まで認められる世の中を作る力になりたい。