選ぶことは人生を選ぶこと。
幡野広志著『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。』を読んだ。
読んだ感想
「子どもって人生において選択肢を選べることが少ないですよね。
“与えられた”や“奇跡”という綺麗な言葉で言い換えることもできますが、
親や家族はもちろん、生まれ育った地域で最初の友人も決まるわけです。
社会の大人からいい子であることを求められて、子どものころから選ぶ習慣がないから、
大人になっても自分の人生を選べない、考えることが苦手な人がいるんだなぁと感じます。
子どもの頃って、どうしても選ぶことができないけど
大人になったり、病気で人生が短くなってくると、
じつはなんでも選べるし、選ばないといけないんですよね。
生きにくさを感じている人に、生きやすさを感じてもらえることを願っています。
(タイトルによせた著者)」
本書では、筆者が34歳のときに、血液がんになったことで起きた親族や友人との人間関係の変化や、がん患者など関係者たちへの取材を通して見えてきたものが綴られている。
本書を通して語られるのは、「自分の人生を生きるために、自分が大切にしたい人を自分で選べ」「自分が大切にしたいものを大切にしろ」ということだ。
読後は、自分で自分の人生をドライブできることがすごく幸せであると思ったし、何より、夫と過ごす楽しい時間は、私たちが相互に「選び合った」ものなのだと改めて感じて嬉しくなった。
以下、共感した部分や日々感じていたこととリンクした部分を書いていきたい。
血縁に縛られる必要はない
まず印象的だったのが、「親を選んで生まれてくるわけではない」、そして「配偶者と子は自分で選びとる」という幡野氏の考え方である。
厳密に言うなら、子も選んだわけではないのでは…?と思ったのだが、意志を持って迎え入れた家族だということなら、「選んだ」と言える、ということなのだろうか。
私たち夫婦にはまだ子がいないが、子どもには「私たちは何度も何度も一緒に考えて話し合って、あなたに会いたいと思って迎え入れたんだ~」と言いたい。親子の出会いにおいて、意志決定しているのは当然親の方である。
この辺りの文章は、優くん(幡野さんの息子さん)へのラブレターなんじゃないかと思っている。
親だから、親族だからと疎遠にしてはいけない、親には感謝しろとよく言われる。
生意気なことを言った時、「親になんてことを言うんだ」と言われたことも過去にはあった。
だが、子どもに生意気(単なる意見だったりもするが)な発言をやめさせたいということと、相手が親であるということには何の関係もない。
こちらを踏みにじる相手であれば、それがたとえ親であっても関係を断ってしまってかまわないのだ。
逆に、大切にしたいと思える人であるなら、血の繋がりがなくともそばで慈しむことができる。それがパートナーであるし、友達や仲間であろう。夫婦だって始めは赤の他人だ。
忘れられない知り合いの話
ここ最近、自分から人間関係を断てるようになった。
明らかに見下してきたり、馬鹿にしてきたり、私の選んで愛している人たちを卑下したり、そんな人を自分の人生に加えたくないのだ。
私は特に、ネガティブな気分になったり、人を嫌ったりするとなかなかその気分から抜け出せなくなるので、思考をシャットアウトする必要がある。明白に「もう考えない!」と決めて実行しないと、いつまでも考えてしまい、気分の悪さを引きずってしまうのだ。
数年前、関係を経った人がいる。当時は友達だと思っていたが、今後は顔も見るつもりがない。そのくせ、数年たった今も忘れられないでいる。彼女のことが過去になるにはもう少し時間が必要なのかもしれない。
同性の友人だったので、部活のこと進路のこと、仕事のこと、パートナーとの時間などあけすけに色々な話をした。そのたび、彼女は必ず、「じゃあ、まずは〇〇の努力からだね」と私の課題を洗い出すのである。
私は、私が次に努力することが何かなんて聞いていないのだ。そんなことくらい自分で決める。自分の人生だからだ。
「こんなことがあったんだ~」と話せば、「努力をしろ、努力が足りない」と言われるのであった。また、「努力をすれば多少はなんとかなる」というスタンスの彼女と話していると、自分の全てが否定されているような気持ちにもなった。
そんな彼女の結婚が決まった。彼女はプロポーズされたことを一番に報告してくれた。パートナーからの結婚の申し出を待っていることも知っていたから素直に嬉しかった。
ただ、その後何度も不誠実な態度を取られ、「10年来の友人の気持ちがわからなくなるほど結婚とは嬉しく舞い上がるものなのか、へえ~」と冷めた思いで彼女を見ていた。結婚という自分の重要な出来事には誠実で、一方で私に対しては、「一生に一度だから」と居直る態度を見せる彼女を見て、自分が大切にされていないことを悟った。
話す都度「アドバイス」をしてくる彼女に、次第に安らげなくなっていっていたことにも。また、その違和感はずっとずっとそこにあったということにも。
10年という付き合いの長さから情もあった。
もともと友人が多いほうではなかったし、「数少ない友人を切ってはいけない」という思い込みもあった。真面目だったから、友達を大事にできないことはいけないことだと思っていた。
「一生に一度だから(´;ω;`)」といっていた彼女は、傷つけられた私にとっても、その日は一生に一度しかないと知らなかったのだろうか。一生に一度だから、ではなく、もう生涯のうち、私たちが交わらなくなるなんて思ってもいなかったんだろう。
彼女にも、会う度私にマウントを取らないと保てない何かがあったのかもしれない。でもそれは彼女の課題であって私の課題ではない。
その後時が流れ、私も結婚が決まった。
式には呼ばなかった。
散々悩んで泣いて、呼ぶべきか呼ばないべきか…と考えていたが、私が思い詰める姿を見た夫が、呼ばなくていいよ、と言ってくれた。
「あなたが決められないなら僕が決めてあげよう。うーん(悩んでいるフリ)、決まりました、呼ばない!」とふざけて笑い話にしてくれた。
自分だけで考えていたら、もしかしたら、断ち切れずに自分の式に彼女を呼んでいたかもしれない。それで似たことが起こり、ああやっぱり、と不快な思いをしていただろう。
きっとまた落ち込んで、選んだ愛する夫との時間を、愛してもいない友人のために使ってしまったことだろう。
選んだ人を大切に
話は逸れるが、『きのう、何食べた?』にはまっている。主人公はゲイカップルなのだが、結婚という制度がない分、お互い別れないために努力をして慈しみ合っている。その思い合う様子が好きだ。
選んだ人を大切にすることは、自分を大切にすることそのものだ。
夫は、家族だからと私を卑下したり見下したりしない。
恥ずかしながら、私と私の家族とのコミュニケーションでは「いじり」が常習化していて、乗らないと「付き合いが悪いな~」「冗談じゃん」と言われることが度々あった。幼いころから、いやだなと思っていたはずなのに、癖になっていたようで、私も時々夫に「愛情表現」をすることがあった。
その都度、夫は傷ついてしまう。
始めは、笑うと思って言った冗談(悪口)が相手にクリーンヒットしてしまうことに狼狽えた。「えっ…冗談じゃん、ナイーブだな」と思っていた。もしかしたら言ったこともあるかもしれない。
だが逆に、卑下されない、いじられないことで、今まで味わったことのない安心感を感じるようになった。いじりや悪口も、相手が笑って過ごすよう無理強いしているから成り立っている。それは相手に甘えている。
友人に「友人だから」と甘えられ、傷つき怒り、彼女を断った経験があるはずなのに、自分も関係に甘えて相手を傷つけている。
関係に甘えて傷つけてくる人や否定する人が現れた時、その人を「選ばない」という選択をすることができる。
自分が選んで愛している人にも、可能であるなら選ばれたい。
血の繋がりや付き合いの長さに惑わされないで、本当に愛する人を愛するために人生を使いたい。大切な人がくだらない理由で相手を渋々「選んでいる」ならば、そんなの捨てちまえと言える存在でありたい。夫がそうしてくれたように。
そして、何より、血の繋がりもない夫が私を愛してくれて、選んでくれているということ自体、私の大きな支えとなっている。幡野さんたち家族もお互いを選び合っているんだろう。
この本を読んだことで、夫と過ごす時間がなぜ幸福なのかを言語化することができた。今出会えてよかった。